<生徒が毎日提出する学級日誌の余白に書きつけた短い駄文集からの抜粋>

洋  燈  の  あ  か  り
 







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青い鳥 イスラム うつろ エーデルワイス
おっとり刀 柿日和 家庭的 原罪
共通一次 古代史のロマン シェクスピア 秋色
専門課程 棚からボタチ  旅芸人        直木賞候補
憤怒の峠 望郷 みずみずしい文章  夕餉の煙 
夕やけこやけ よその台所




エーデルワイス

 高嶺の花の「花」はなんでしようかと,ある人がある若い人にたずねたところ,それは「エーデルワイス」という答えが返ってきたという。
 この答えは明らかに間違いであるとして,一笑に伏すことは出来ない。ある年配の人にたずねてみれば,別の「花」が返ってくるかもしれない。
 言葉は,時代と共に意味を変える。当然のことではあるが,同時代の人々の間でも,それぞれにニューアンスが異なる。
 たとえば,定形俳句には季語がある。月と言えば秋となっているが,その月と秋も時代が変れば,人事に止まらず,自然現象も大いに変化して,微妙なかげりを見せてくる。学校の先生の月と秋は,政治家の月と秋とは異なるだろう。さらに,人生経験や生活環境など色々ある。ただ共通の約束事は,俳句の世界では,月といえば季節が秋であり,これは個人や時代を超えたものである。
 高嶺の花の「花」が具体的な植物になるところまで時代が移り,人々の意識も変ったのだと思うと,考える材料が増えてきた。
                        (昭和52年 1977)





















             
よその台所

 ○ ソ連の人工衛星が墜落した。

 我々のする事は,なにをやっても,過度に走りすぎるのが欠点である。人工衛星は必要であるとして,お互いの益になる利用度の高いものに限るというような,奥ゆかしさを身につけていない。まして,事故は必ず発生したことを思い起こすなら,原子エネルギー,核燃料といった物騒なものは,そうやすやすと飛行物体に使えるはずはないのである。
 さらに,それが核弾頭を塔載した衛星ではないかとの疑惑があるに至っては,一体,人は何を考えているのだろうかと身震いが湧いて来る。
 地球上の自然をどんどん破壊していくだけでは物足らず,大気圏のかなたまで人の手で汚して行こうという。
 人工衡星は,専ら,偵察用の物が幅をきかせているらしいが,相手の台所の中身まで覗く事は,我々の傲慢さによるものであろう。政治体制が異なれば,そこまで相手が信用できないというのも,我々の傲慢さの裏返しでもあろう。
 自然を守るキャンペンーを張ったとしても,自然を愛すると同時に,畏敬する心がなければ,長続きのする話ではない。
 自然ばかりではない。人はお互いを大切にしなくてはならない。大切にするためには,愛がないことには長統きのするはずはない。また,相手を立派な人物だと思わないと始まらない。相手を理解しなくてはならないと考える。そこで,相手をよく知ろうと,相手の使う,布とん,ベッド,茶椀,台所の冷蔵庫の中身まで知ろうとするのは「過度に走りすぎる」という欠点の現われであり,傲慢さの現われである。そこまで走らなくても,相手を理解し,大切にし,愛することは出来る。
 人の道の原点や,対自然の原点は,とかく忘れられたり,軽じられがちである。
                        (昭和53年 1978)





家  庭  的

 知人がついに結婚した。彼は結婚相手が家庭的な女性であることを望んでいた。実際,その女性はきわめて家庭的だとの評判である。
 ところがある事が起こった。一つには,彼は,大根の漬物や梅干が大好物であるが,家計への思いやりから,いちいち市販の物を購入するのはやりきれないとの気持ちが強い。そこで,青梅を安くで買い,大根も大いに安めに買って,新妻に,これで梅干や漬物をつけるようにと頼んだ。ところが,彼女は評判の家庭的であるにもかかわらず,その作り方を全然知らない。彼女の母親もまったく知らないことがわかった。
 大量消費時代のあおりであることはうなずける。日本古来の生活の知恵を彼女の家系は守り伝えていなかった。
 もう一組,子育てがうまく行っていない家庭のことを風聞したが,やはり母親が漬物をつける事ができなかった。もちろん梅干も作れない。味噌などの高度の技術の必要なものは,ますます作れない。
 味噌や漬物と子育てが,直接関係があるはずがない。
 しかし,こうなると家庭的という表現も大層意味の幅が広いことがうなずける。真の家庭的とはなんだろうか。西洋人は,祖先伝来の生活様式をかなり忠実に守っているという事を思い出さなくてはいけない。
 毎日の生活の中で,古くからの生活の知恵が生み出してきたものを守り,大切にしない人は,自分の将来をも大切にしないのではないだろうか。従って,せっかく生まれてきた愛しい子供の才能が,どちらを向いているのか皆目見当もつかない。
 いたずらに西洋のまねばかりしないで,日本的な長所は他国に誇る伝統として,あまねく,存続させたいものだ。
                        (昭和53年 1978)





おっとり刀

 日本人は,自分の意見をはっきり表明しない民族だと,外国から来た人々は,口をそろえて言う。それを外国人が分析したところによると,すでに子供の時にその芽ばえがある,というよりも,そのように社会全体が教育しているのだと外国人達は見抜く。外国の子供と日本の子供の比較で,これは決して見当はずれではないと言えるのだそうだ。
 日本の子供は周囲の全てから守られ,純粋培養されているのだと断言する。そのような子供が大人になって急に社会の汚物に出会うとき,対処の方法をもちろん知らない。従って封建社会の名残リである「組」や「一致団結」の殻に閉じ込もり,終身雇用の企業や官庁への忠誠心が燃え上がる。そして子供を排除し,年老いた人々を退け,異民族にそっぽを向く。自分の会社,職場以外との交渉を立ち切る。このように外国人が分析する。
 いちいち的をついているから,ぐうの音も出ない。
 そう言われてみれば,判断をせまられた時,仲間をうかがい,上司をうかがう。あくまでも協力一致の美名の殻に閉じ込もろうとする。
 西洋人の「協力」の観念は,我々のそれとは本質的に違う事がこれでよく理解できる。
 意見,感情の表明が,フランクな人々から教えてもらった民主主義は,日本ではどうも風化しがちである。
 にげ腰,ヘっぴり腰,および腰,いずれもこれに,「おっとり刀」をつけてみる。果たして,自分の意見を言明する気が湧いて来るだろうか。
                         (昭和54年 1979)




秋   色
              

 山が黄色く色づく頃は,人の歩みが早くなる。カラスの帰りも早くなる。もずやかけすも落ち着かない。
 山が黄色く色づく頃は,「昔の恋」を思い出す。
 山が黄色く色づく頃は,育った田舎を思い出す。柿をしずかにぬすみもぐ。

 山が黄色く色づく頃は,そぞろ歩きをしたくなる。架けた稲穂が呼びよせる。
 山が黄色く色づく頃は,無性に腹がたってくる。うっかり過ごした一年を,腹をたてて振り返る。
 山が黄色く色づく頃は,夕日を眺めて憧れる。ホータン・カシュガル・天山北路。 山が黄色く色づく頃は,寒い心が急き立てる。屋台の湯気に明日を待つ。
 山が黄色く色づく頃は,………………
                         (昭和54年 1979)





           
棚からボタモチ


 『メーデーや港町に太陽沈む』
 いい句だと思う。朝日俳壇に掲載され,作者の名前は忘れたが,労働する者の心情をよく汲み取っている。
 労働という語感は,長い間,我々にはなにかきついこと,非常に体力を消耗することといったイメージを与えてきた。従って労働者といえば,本人の意志に反して,なにかむりやり働かされている人のように考える傾向が,今なお社会に残っているきらいがある。
 労働は人類発祥のころ,きわめて神聖なものであったはずだが,支配階級の台頭と共に身分に高低をつけ,服従的な立場におかれた人間のすることと見なされるようになってしまい,ついに,多くの人々の血を流し,やっと労働する人間の尊さというものを取り戻したのが,人類の歴史ともいえよう。
 日本も戦後三十数年の間に,労働観が変化し,その認識が高まってきたが,まだまだ,労働は,いやなもの,なるべくしたくないものとの考えは根強い。
 生産をするには労働をしなくてはならない。労働を他人にまかせて,産物のみを味う。これに対する願望を捨てきれない。さらに,棚からボタモチ式に利益だけを手に入れたい。
 全ての分野にわたって,生産は苦痛を伴う。体を使う,頭脳を使う,すべてエネルギーを必要とし,苦痛を要求する。
 『人が本質的に保守的なのは,改革のために頭脳を使うことが,最もひどい苦痛をともなうからである』と,サマセット・モームが分析している。
 生産の苦痛から逃れようとする人々が増え続ければ,一体どういう社会になるのだろうか。
                         (昭和54年 1979)





              
イスラム


 ニュースによると,ホメイニ師は世界を敵にまわす事になった。
 それだけの自信があっての言動であろうが,思い上りの感は免れない。
 石油は全世界が必要としている。それを大量に埋蔵していることは,戦略上の強味であることは認めるが,それを楯にとって,自分達の,イスラム文化の拡大を全世界に押しつけるのは,止めなくてはならない。
 イスラムは喘いでいる。イスラムの病は重い。これはイスラムが,己の主義を宣伝し続けて解決する問題ではない。石油への過信を拭いさることが,第一になされるべきである。
 もともと天然資源は,自然がたまたまそこへ与えたものである。人間がそれをどう処理するか,自然は静かに見守っている。さも自分達が,汗水流して獲得したものだとの錯覚を起してはいけない。
 イランはこれを全人類のために,いかに長く,いかに公平に利用していくかを考えねばならない。イスラム教にもその根本は説いてあるはずである。
 石油もいずれは枯渇する運命にある。イランが,石油を振りかざして狂乱していて,どうしてイスラムの新しい世界が生まれて来るのだろうか。列強もこれに便乗してはならない。
                         (昭和54年 1979)




        
シェ  ク  ス  ピ  ア


 『二物間の類似点を知ることは,二物間の相違点を知ることよりも大事である。とかく我々は,類似点よりも相違・差異に注意をひかれやすい。類似点に興味がなければ,相違に対する興味は断片的で創造的ではない。逆の場合は,我々の考えは推測の域を出ない。むなしいものとなりがちである。』
 シェクスピアがいる。世界中で最も偉大な詩人であり,劇作家として知らぬ者はいない。
 そのえらさはどこにあるのか。その全ての作品が400年間も,人々をとらえて離さない原因は何か。
 シェクスピアは知っていた。『人間はお互いによく似ているものであり,また人間はお互いに似ていない存在である』ことを。
 シェクスピアは類似を観察し,相違に興味をいだく。その強さが古今まれであった。
 こういう考え方,物の二面をみる力,これは意識的に養う心がけをしておかなくてはなるまい。人が若いときに,とかく独善となりやすいのは,この力と関心の欠如も原因であろうか。
                        (昭和55年 1980)





         
直  木  賞  候  補

 昭和55年度(1980)上半期の直木賞は,該当者なしと決定した。これをNHKが追求した。六人の候補者にインタビューを求めた。偶然それを観る。なるほど,今年の上半期は,該当者なしは当然だとうなずける。
 直木賞は十代の人達も知っているように,「大衆性」のある作品がその対象であり,これは芥川賞にはないものであって,文学性の判断基準を異にしている。
 作品のもつ「大衆性」と作家が哲学をもたない人物であるのとは,全然異なった事であることを考えておかねばならない。六人の候補者に共通していたことは,そのインタビューから判断すると,人生に対する真摯が感じられない。
 文学は,真摯がなくても生まれるのか。真摯に生きる。この努力をする者にしてはじめて,文学は創作されるし,文学は理解される。六人の候補者の作品は,そのインタビューだけで,一読の価値はないと判断した。この判断は的をついているとの確信がある。
 物を創ることを軽く考えてはいけない。たとえ一部の読者が,その作品を騒いだとしても,真摯のない作家が書いたものが,時代の試練に耐えることはできない。それは単に奇をてらっているにすぎない。六人の候補者に共通した態度は,うわついた日本人の心を代表しているものと思ってよい。日本の今の文化が,借物でうわついていることの証明でもある。
                    (昭和55年 1月26日 1980)




             
う  つ  ろ

 体がひどく寒いときは,体のどこかにうつろなところがあるのだろう。
 寒い心は,満たされない心と同じように,うつろなところがあるのだろう。
 身も心も寒いままに放置された人々は実に多い。そのような子供達も数え切れない。そして,福祉は遅々として進まない。
 お金のかかることではないならば,心だけでもうつろにしておいてはならない。
 心のうつろを埋めるものを考えてみる。
 人から愛されること,人を愛すること。まず,これが一番よいだろう。ところが,人を愛することは,なまやさしいことではない。つい,愛されないことのうつろさが先に立つ。
 思い切って,愛の外に出てみる。
 夢がある。夢が心を満たしてくれる。しかしこの夢は,少しずつでもその実現性が見えてこないことには,ついにはうつろな夢で終ってしまいかねない。
 夢の外に一歩出てみる。人生をたいへんに長い眼で眺めてみる。するとこの世にいる間に,色々とやりたい事があったことに気づく。もちろん,はるかなる遠い夢のことではない。
 そこで,独立心をひきおこす。やりたい事がそこにもここにもある。独立心があるから,手近かなところから手がけてみる。心のうつろが埋まり始める。これも一つの有力な方法である。
                        (昭和55年 1980)




             
青  い 鳥
 
 東北大学名誉教授土井光知博士の追悼論文や思い出などが,今月の「英語青年」に特集された。
 土井光知博士は,夏目漱石に英文学の手ほどきをしてもらいたくと,第三高等学校から東京帝国大学イギリス文学科に入学。その時は,もうすでに,漱石は文筆生活に入っていた。
 土井光知博士は,第二次世界大戦で長男を戦死させ,東北大学研究室の書物も丸焼けにされた。それにもかかわらず,ひたすら学問の世界に打ち込まれ,今日の文学研究の基礎を築かれた大人物である。
 古来,大人物というのは,自分に対して極めて厳しい反面,年下や,弱い立場の人々に対しては,たいへんに情け深い心で接する。
 大人物は世に多くいるものではないが,その少数の大人物に身近く接し,その人から,情け深い指導を受けられる人々は幸福である。そこには,「青い鳥」がいる。土井光知博士は,そういう人だったと,異口同音である。
                        (昭和55年 1980)




            
       柿  日  和

 紅葉の便りが方々から届く。スイッチを押すだけで眼前にある。
 紅葉を若葉と比較する時、むせかえる香りの息吹がない。紅(くれない)に色がうつろう原理をあれこれと思い起こすことを止めて、別の角度でみる。
 やがて消えゆく運命にあるものの、最後に燃え尽きようとする命のはげしさが、紅となって表に出る。こうなると、紅葉は枯淡から数歩遠ざかる。
 芭蕉は紅葉をどのように詠んでいるのであろうか。虚子の歳時記を開いてみるが、芭蕉からは一句も載せていない。山本健吉にもまったく見当らない。
 芭蕉の秋には紅葉がない。「わび」「さび」「かるみ」に紅葉はそぐわないのであろうか。このように考えてくると、紅葉は若葉よりもはげしい命であるとの定義が肯定されてくる。
 芭蕉が紅葉の句を、後世に名句の一つとして残していないのは、「紅葉」を句にして「秋」を表現することのむずかしさの証でもあろうか。
 虚子の歳時記から「紅葉」を三句引用してみる。
    秋もはや岩に時雨れて初紅葉  許六
    山里や煙斜めにうす紅葉    蘭更
    山の端に庵せりけりうす紅葉  たかし
 この三句の中の「秋」と次の二句の「秋」を比較してみる。
    柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺  子規
    今日もまた遠き山家の柿日和  たかし
 人それぞれの好みと感性があり、それぞれの観照がある。後の二句が、茫漠とした秋の深さと広がりを紅葉以上に表現していて妙である。前の三句は、秋を最もよく代表する紅葉という季題に、どうしても焦点化される。そうなると自然のままの紅葉が脳裏に彷彿としてくる。その彷彿とする点で、これらはまさに名句であり、花鳥風月に徹する『ホトトギス』の流れの原点であるが、詰まるところ、自然の情景と変るところがない。
 後の二句が創り出す「秋」は芸術になった秋という感じが強い。自然の秋よりも芸術の秋の方が、感性に強く訴えかけてくる。
 独善との批評は免れない。
 紅葉は、やはり、「命の最後の象徴」であると考えたい。(昭和52年 1977)


     

     
みずみずしい文章

 人が文章を書く時には、その人の個性が現われる。これが「文体」といわれる。
 芸術性の高い文学作品の文体の研究は、興味のある仕事だと思う。イギリスには、ハーバート・リードの有名な「文体論」がある。
 日本文学でも、すでにそのような研究は数多く発表されているが、文芸が専門ではない者が、長短にかかわらず文章を書く時、これは十代の人の文だと、これは六十代以上の人の文だと、その内容からではなく、その文体から、おのずと人生のそれぞれの段階が読みとれるような文章が書けるようでありたいものだ。
 瑞瑞しい文章という表現がある。七十才の人の文章に、このみずみずしさがある時、その人の精神の若さ、柔かさ、その人の清澄な人生観照が読む人の心を打つ。七十才でみずみずしい文章が書けるような人生は、若い時には若い時の、中年には中年の、情熱のある毎日を送ることであろうか。
 具体的にこの情熱を考えてみる。情熱のある毎日とは、「創作者的」な毎日だと定義してみる。
 ここに一枚のユトリロの絵がある。これぐらいは自分にも描けると思いながらも、実際に自分で絵を描かない毎日の連続は「評論家的」の毎日である。描き上げる絵の出来、不出来は別にして、自分で実際に描く人の毎日は「創作者的」である。
 生涯「評論家的」な生活を送る人もいる。そしてその数は予想外に多い。その中にあって「創作者的」な生活を送り続けた七十才の人の人生は情熱の人生といえよう。その人が文章を書く時、「瑞瑞しい」文章が出来上る。
 この世に人として生まれ出たからにはと、思いをめぐらす時、選ぶべき人生は、自ずと、決まってくるであろう。(昭和52年 1977)




              
夕餉の煙

 『夏草や兵どもが夢の跡』
 『城春にして草木深し』

 いずれも大自然が、それぞれの季節において、ちいさな人間の生活を凌ぐ様が彷彿としてくる。
 人事は有為転変の運命を逃れられない。この無常感は遠く中国に発し、今なお日本に流れ続ける。
 この身はいずれ死しても、自然が残ってくれるとの無常感の救いが、その裏に秘められている。
 ふと眼前の風景に目を向けてみる。
冬の全てが荒涼とした夕暮れの中に、麓の民家の夕餉の支度の煙が立ちのぼる。やがてそれは暮色に溶け込んでいく。
 冬に枯れはてても、人の営みがある。
 昔はそこに冬の温もりがあった。最近は全てが電化しガス化し、冬ざれの野のかなたに、夕餉の煙のたなびく様は、まったくと言ってよいほどに見られない。
その事に気づく人々すらいない。むしろ枯野を疾走する自動車の姿に、安らぎを感じる時代である。『古木に寒鴉』がいても、『夢は枯野をかけめぐる』事をしなくなった時代である。
 かって米国の作家ヘンリーディビッド・ソローは、森林生活を唱道し実行した。
その説く所は、文明の利器を去って簡素な生活をするところにある。
 簡素な生活は自己を見つめる。自己を見つめる所には心のゆとりが生じる。この簡素な生活ヘの運動は、今なおアメリカに生き続けている。
 我々の日常を改めて見直してみる。自己をふり返ることがあるのか。自分がこうむる損得への振り返りは確かにある。ありすぎるほどであろう。しかし自己への省察は乏しい。心のゆとりが生まれるはずがない。
 簡素な生活を志向する運動はないとしても、そうせざるをえない時が必ずやってくるにちがいない。(昭和53年 1978)




              
  旅芸人

 作家藤本義一氏は、「芸人」が好きであり、「芸」に強く引きつけられ、それによって直木賞を受賞した。「芸」は、浪速(なにわ)を思い出す。
 旅芸人。生活の安定はない。安定していないから、ロマンが漂う。変化がある。変化のないところに躍動はない。躍動のないところにロマンは生まれない。旅芸人こそは、この世は生きがいのある所と言うかもしれない。
 変化の連続は、不安を生む。不安を感じるところにはサスペンスがある。サスペンスのない生活は、我々を平凡へと連れ下げる。
 たとえば、身が一旅芸人でないとしても、サスペンスを、科学者などは大いに感じるにちがいない。詩人や作家もそうであろう。
 生活の場が一定し、いつもの手順が安定しているからといって、必ずしも単調とは限らない。サスペンスは精神のものである。「人工的サスペンス」を創り出さねばならない。サスペンスはロマンに通じるからである。ロマンのない生活は苦痛である。
 『子供には単調がよい』と、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルが主張している。これは真をついている。子供の成長には精神の安定が必要である。しかし、成人は変化に生きる。精神の変化を食す。(昭和55年 1980)




            
夕やけこやけ

 童謡「タやけこやけ」は、日本人の心のふるさとだと言われるそうだ。世代が違えばどうなるのだろうか。日本はあまり外へ出さないが、西洋からはどんどん日本に入ってくる。若い世代も積極的にそれを取り入れている。ニューミュージックも日本の若者の創作ではなく、同世代の異質の言語と文化を持つ若者達の創造である。 海の向うにもそこの若者の心のふるさとの歌がある。国民がまとまった宗教観を持っているような場合は、心のふるさとのないはずはない。
 「タやけこやけ」が、日本人の心のふるさとだと言われる点を、日本の高校生に分析させたところ、どこが心のふるさとなのか、皆目はっきりしない内容が多かったそうである。
 若い世代に何かが起っているのがわかる。それぞれの国で、若い世代はそういう立場にある。しかし、なぜそれが、その民族の心のふるさとなのかを理解できない若者が多いのは、日本だけではないのだろうかと不安がつのってきた。
 日本人の心を教え込む点で、大人が怠慢であったのか。日本全体で、固有の心の伝統を重んじる余裕がないほどに、何かにのめりこみ続けてきたのか。若い世代の心のすさみもそこからきているのか。(昭和55年 1980)




  古代史のロマン
          
 広告に『古代史のロマン』とある。
 現代から古代を振り返るとき、頼りになる資料はほとんど残されていない。偶然の発見に待つしかない。未知そのものである。そこで、広告のような惹句が出来上がるのであろう。
 今の日本人はどうして過去へ、古代へロマンを感じるのか。いろいろ分析して見ではどうだろうか。
 その一つのきわめて悲劇的なことは、今のわれわれは、そのすぐ近くの未来に夢をみることができないことであろう。悲しむべきことである。
 古代にフィードバックすることで安らぎを感じても、すぐそこの未来になにかを創造しようとはしない。未来を見つめようとすると、恐ろしい予言が待ち伏せしている。それを忌避する。いちがいにこれを責めることはできないであろう。
 十数年前までは、かなり未来について聞いたものであった。政治から教育まで津々浦々であったと回想する。急に人々の関心が古代へ向きはじめた。これは、確かに悲劇的である。逃避や退行の表れではないのか。
 むなしい響きをもっているが、最先端の教育に未来の夢をかける。むなしさが強まるけれども、元気を出して、ロマンを未来に求める勇気を十代の若者に植えつけようとする。いよいよはかないものだとの思いがつのるが、もはや後には引けないと、それを人々に呼びかけてみる。(昭和55年 1980)




               
原  罪

 人はそれぞれ「原罪」を背負って生きる。
 作家野坂昭如氏は、終戦の飢の中で幼い妹に死なれた。あれから三十数年経つ。いまだにその時の妹の姿が脳裏から離れないと言う。彼の活動の原点である。
 それに近い体験は、四十代以上ならたいがい持っている。名前が世に知られない多くの人々が、満州の荒野に子供を残してきた。その生死は定かでない。
 自己の意思の支配の外で、愛する者の死に接する。その時「罪」に近いものが意識の底に沈殿する。それを背負いながら生き続ける。
 生き続ける原動力は、死への恐怖があげられようが、死んだ者の「生」まで生き続けねばならないとの義務感が湧く。その義務感が、よい方向に向いてくる時、「原罪」が創作意欲を掻き立てる。
 何時この「原罪」を背負うかは、その人の人生の枠に応じて、早くもあれば遅くもあろう。自分だけはそれを逃れたいと願っても、これはすべての人に必ず降りかかるものである。
 それは、愛する者の非業な死などに限ったことではない。一見ささいに思える事でも、その人の人生に大きく影響を与え続け、その事からある時は追われるように、またある時は改めて深く見つめ直すようにして、その人の精神に常になんらかの形で関っていく体験である。
 十代の後半は、この「原罪」が始まる年頃である。
                        (昭和55年 1980)




           
憤怒の峠
      
 昭和三十四年、ついに企業が海を買い上げた。島民はお金のために海を売った。一瞬にして海水は褐色に変わり悪臭を放つ。以来、ふるさとに帰るたびに、悪臭の漂う茶色の海を眺めることになる。日本の高度経済成長と時を同じくする。
 日本海の青い漂いをみる。日向の海が目に映える。それはどこまでも青い。その青さが目にしみるたびに、ふるさとの褐色の海が浮んでくる。
 どうしてあの海を売買したのかと、望郷の念は憤怒の念に変わる。ついにその『憤怒の峠』を降りて、『絶望の淵』に立った。
 昭和二十五年の夏、突然、無数の小魚が腹を上にして岸辺に流れついた。その時、海水はうす茶色である。徐々にその頻度が高まって行った。それ以前は、水泳を魚と一緒に楽しんだ。潮がひく時、島民はこぞって遠浅に出る。アサリ貝が貴重な食糧の一部であった。そして、それはまた豊富に存在していた。
 昭和二十年7月、米軍のグラマンが、アサリ貝を採集中の島民達に威嚇射撃を行った。本土にある航空隊には、一機としてそれを迎え射つ戦闘機はいなかった。島民の在郷軍人と呼ばれる年輩者達は思ったことであろう。
 「日本はもはやこの戦には勝てない」
 それでも島民達には、青々とした豊かな海があった。
 歴史は急転する。ついにその海まで売った。良心のうずきは、長い戦争からくる心のすさみに、ついに屈してしまった。
 戦争は若い人々を始めとして、多くの犠牲者を出したばかりではない。生き残れた人々の心を蝕んだ。
 人間がしてはならない事が二つある。戦争と自然の売買である。自然の売買も、人心を荒廃させる。
 時は流れた。ついに水俣が犠牲になる。人々は我に帰る。もう戦後も三十数年経つ。この三十数年の間に失った自然を取り戻さなくてはならないとの熱い思いが湧いてきた。
 そして、ふるさとからの便りに言う。ようやくのこと、島の小学校では、魚釣り大会を行事にするようになった。
 あの瀬戸内に海が甦る。望郷の念がひとしきり湧く。後から後から湧いてくる。
 人が二度としてはならない事は、戦争と、自然の売買である。(昭和55年 1980)




専門課程

 専門課程の生徒達に,物の再利用について話をした。反応が少ない。これは導入がまずかったと反省したが,実学を学んでいるはずの彼女達が,日常使用する物の廃棄物,ごみ等のリサイクルへの反応が少ないというのは,実学の専門性が十分でないのか,消費を美徳とする時代の反映なのか,少し考えてみたい。
 やはり,実学の内容に,問題があると思わざるをえない。そのために,実学を教える立場にとっては,大変な苦労となっている。教育は,個人の発展,幸福のためにのみ存在するのではない。社会,人類全体の将来をも考えたものでなくてはならない。現実は,枝葉末節にとらわれていると考えざるをえない面が多い。
 高校教育の問題点の一つは,普通科高校の予備校化,受験体制の激化のみにあるのではない。実学を施すベき職業系高校の,専門科目が果すべき役割の中にもあると,思うようになった。
 民族は一方において,その民族の指導的な立場を果すべき人物も養成しなくてはならない。これは教育制度で可能なことである。 この点に関して世間は,創造性,独創性の点で指導的な人材の育成を,しくみを変えないままで学校教育に期待しており,また,その観点からの様々な改革案が提案されている。しかし,現代の社会情勢の下で,学校教育は集団の指導者の養成はできるが,創造者を育てる事は至難の事業である。もちろん,子ども達が,常にものごとを前向きに考えていく創造性の基礎を,しっかり育てなくてはならないことは当然のことである。
 教育課程を現に実施している最先端の教師でないと,理解できない点が多いだろう。明治維新の『松下村塾』も,大阪の『適塾』も,国家レベルのリーダーを多数輩出した。それを目的にしていないこともあるだろうが,創造者に関しては無力に近いものであったと思う。皮肉なことに,学校教育を最後まで受けない人々の方に多く出ている。教育制度を早くから持っている西欧においても,しかも日本の現在の教育より,創造力を培っていると自負する彼等においても,真の創造者は百年に数えるほどしか輩出していない。英才と創造者は異なる。ここをよく考えておかねばならない。学校教育は,漠然と大きな期待を寄せるのでなく,あくまでもそれが達成しうる機能の限界をわきまえて,具体的に行っていくべきものである。その中で,高等学校段階の実学的要素をもっと工夫して,改良を加え,充実していく事が急務であると考えるようになった。
 内閣の交代のたびに,話題にのぼる教育改革の中で,必ず,この実学の分野は軽んじられている。大学入試の形式を変えてみても,問題の本質にはせまっていない。実学の中で,家政科を履修する生徒達は,専門の家政的職業に就くことができない。その門戸も極端に狭い。専門の家政的職業に従事したいならば,その方面の短大,大学,あるいは専門学校に進学しなくてはならない。家政科を卒業して専門的職業に就けないのは,高等学校で学習する実学の内容にも責任の一端がある。したがって,物の再利用にも,興味は湧いてこないことになる。教師の苦労は増える。
 教育の改革には,日本民族の永続的存続と,恒久的な発展を踏まえての改革を志向しなくてはならない。新しい文相の発想の中にも,この点が欠けているのではないか。 (昭和53年  1978)




共通一次

 年末にかけての内閣改造が,慣例化してきた。今年も新しい文部大臣が決まった。「教育は大切である。立派な先生をつくりたい」 あるインタビューで,小学生達もそのようなことを,はきはきと自信をもって答えていた。
 治める目で教育を見るとき,そして同じ目で子供を見るとき,現実とかけはなれた教育体制が出来上がる。これを中心にして教育界の荒れがどんどん進行していく。教育で今一番間題なのは入試が厳しすぎることである。その過当競争にあると,考えない人はいない。しかし,本当にこれが今一番間題となることなのかと,考えを更に進めることはあまりしようとはしない。
 改革の際はすべてそうである。それを大問題にしないと改革は実現しない。それに異論を唱える者は,暗殺か極刑にしないと,改革は実現しなかった。従って現代でも,誰もが教育上の諸悪の根源は,入試のきびしさにあると思い込んでしまう。
 ここで明治三十年代の高等教育を思い起こしてみる。漱石の『門』の主人公宗助は,京都帝大を中退して妻と二人暮らしでひっそりと東京市に住み,役所に務めている。弟が帝大に入学する時がきた。宗助一人の経済力では,弟の帝大の学資が出せない。
『三四郎』の主人公三四郎は,福岡縣の大きな庄屋,大地主の生まれである。旧制高校,帝大の入試競争が想像できる。
 入試は競争を伴う。昭和五十年代の国民の経済力がある。日本では枠の拡大には限界がある。競争の激化は避けがたい。社会はこの際,現状のままとしておく。入試競争は厳しい。それでは,教育をどうするか。一学級の定員を今の半分に減らす。莫大な金ががかるがやってみる。生徒一人一人に教師の眼と指導がよく届くようにする。入試に競争が伴う限り,生徒の受験地獄は解消されない。国民に明治以来の社会通念が定着している。豊かな人生を保障してくれるのは,高等教育であるという。
 欧米から,日本の教育を見た意見の共通点は,日本の大学卒業者の創造力は乏しいという事である。彼等は受験競争の激しさではなく,本質の違いが妨げている所をびしっとついている。そして,この意見を取り入れようとする人はほとんどいない。西洋人になにがわかるかという,島国根性が復活してくる。
 入試問題そのものを変えてみる。創造性を測る間題のつもりで作成してみる。優れた創造力,秀でた創造性は個性的なものである。パターンがあるわけではない。アメリカで発達した知能検査が,人間の知能のすべてを測定しきらないこと以上にみじめな結果になりかねない。北海道から沖縄まで,知識修得の一律の教育を行う明治以来の方法は,入試競争に勝つためだけの知識と技術の詰め込みと同様に,創造力とは縁の薄いものである。
 入試について少し考えてみる。入試はその一生の中の一時期のものである事が忘れられがちである。死ぬまで受験勉強を続けるのではない。一方,自分を見つめ,自分と向き合うことは一生涯続く。「天賦の才」を見い出す機会は何度も訪れる。人生はそのようにできている。
 つらいこと,きついこと,自己の限界に挑戦することを嫌う風潮にすりかえられてはいけない。どんな社会にも競争はある。創造力ばかりの集団のきびしさがどんなものかは,たやすく想像がつく。彼等はそれに耐える信念と哲学をもっている。
 今間題となっているのは,自分をよく見つめないで,子どもをよく理解しないで,競争のために自己を失い,理性を失い,狂乱の中でエスカレートしていく日本人の視界の狭さと,教育に金を掛けない社会構造である。本質をさけて入試制度をいじってみても,事態は悪化するばかりであろう。
 青年がその成長過程で当然受けるべき試練を,それはきつかろうから取り除いてやろうという考えは,未来を考えていない。教育は,のんびりとしてばかりおればよいのではない。緩急自在が要である。人類は常に何物かと闘って存続してきた。それぞれの時代に,人類が克服するべき課題があった。現代は文明の腐敗,絶え間ない紛争根深い差別と貧困,科学技術の脅威と若い人々は闘っていかねばならない。地球そのものもどうなるかわからない。人類存続のための意気込みと気迫も,教育は培わねばならない。それは西洋に任せておけばなんとかするだろう,ということにはならない。 回りくどくなったが,見せかけの制度いじりを,実際以上に見せかけるのは愚である。共通一次形式は,はたして未来に繋がっているのか。いずれは歴史が証明してくれるであろう。              (昭和53年 1978)




望   郷

 昭和34年,ついに企業は海を買った。島民は生計のために海を手放した。一瞬にして海は茶色に変わり,悪臭を放つ。以来,故郷に帰る度に,悪臭の漂う茶色の海を眺めることになる。日本の高度経済成長と時を同じくする。
 日本海を見る。日向の海を見る。海はどこまでも青い。その青さを見る度に,故郷の茶色の海が脳裏に浮かぶ。どうしてあの海を売買したのかと,望郷の念は憤怒の念に変わる。その「憤怒の峠」を降りて,ついに「絶望の淵」に立った。
 昭和25年の夏,突然無数の魚が死体となって岸辺に流れついた。その時,海水は茶色である。それ以前は,水泳を魚と一緒に楽しんだ。潮が引く時は,島民はこぞって遠浅に出る。アサリ貝が貴重な食料の一部であった。それはまた,豊富に存在していた。春(張る)ハマグリと言う。旬は春だが,夏もよく食べる。
 そこは,瀬戸内海国立公園の西端をすこし外れた小島である。小島といっても,本土から遠く在るのではない。江戸時代の塩田干拓によって,引き潮ともなれば,浅瀬を選んで歩いて渡ることが出来る。その昔,安芸の宮島と厳島神社の建立を争った。「浦」の数で,7つを有する宮島に屈したとの伝説が伝わる。はずされて残念だったと,『厳島神社』が島の東部に小さく分祠され,今も夏と秋の例祭が賑わう。
 昭和20年の夏,米軍のグラマンが一機,アサリ貝採集中の島民達ちに威嚇射撃をした。本土の航空隊には,一機として迎え撃つ飛行機は残っていなかった。島民の年配者達は思ったことだろう。日本はもはやこの戦争には勝てない。
 それでも島民達には青い海があった。時代は急転する。ついにその海を売った。良心のうずきは,長い戦争からくる心のすさみに屈してしまった。戦争は,若い人々を犠牲にしたばかりではない。生き残れた人々の心を蝕んだ。人間がしてはならないことが二つある。戦争と自然の売買である。自然の売買も人心を荒廃させる。
 時は流れた。ついに,水俣が犠牲になる。人々は我に帰る。もう戦後も30数年経つ。この30年の間に失った自然を取り返さなくてはとの,熱い思いが湧いてきた。そして故郷からの便りに言う。ようやくのこと,島の小学校では,魚釣り大会を行事にするようになった。
 あの瀬戸内に海が甦る。望郷の念がひとしきり湧く。後から後から湧いてくる。
人が二度としてはならない事は,戦争と自然の売買である。
                        (昭和55年 1980)